新聞の投書欄で、タブレットでの注文をめぐり、80代の客と店員が口論していたことについて、「時代についていく努力も必要」と言う意見があった。それについて、多方面からの投書が載っていた。高齢者は、デジタル社会に置いていかれ、ストレスが溜まる。21世紀の近代は100年で変化するところを、10年も必要とせずに変化する。1年で大きく変わることもある。忙しく感じる。時の過ぎるのが速く感じる。
年のせいかなと思っていた。「ジャネーの法則」がある。大人になると、体感時間が短くなる法則だ。感じる時間の長さは、年齢の逆数に比例するという。それは、子どもは常に新しい体験をして感動したり、できないことにチャレンジして達成感を味わったり、失敗して辛い目にあったりする。子ども達は、活動的でなんでも知りたがりで、やりたがりである。毎日、新しい発見や学びがあるからだという。だから、子どもの時間は大切なのだということに同意できる。しかし、年を取っても、私は、活動的で意欲的で、知りたがりで、やりたがりである。おまけに、感動し、泣いたり笑ったり、心豊かである。それなのに、なぜか時が過ぎるのが速く感じられる。心せわしくなっている。
「加速する社会」という本を手にした。現代は誰もがますます忙しくなっていないか。IT、スマホを使い、電子メール、オンラインを活用しているのに、以前よりも時間が過ぎるのが速く感じられる。ストレスが高まる。ずっと走り続けていないと、今の立場すら保てないのではないか不安である。まるで、地滑りを起こしている急斜面に立っているかのような恐怖を覚える。社会が変化するスピードは、どんどん速くなっており、キャッチアップを少しでも怠れば、たちまち知識や情報は古びて、時代遅れになる。私達は同じ場所にとどまるために、できるだけ速く走っている。「加速する社会」への適応を拒めば置いて行かれる。近代社会は絶えざる成長と上昇を必要とし、加速のプロセスが自らを強化して、さらなる加速をもたらす。
20世紀末に始まる「後期近代」は、加速と流動化がさらに進んで、臨界点を超えた時代だ。人も、政治も、経済も、加速プロセスに浸食されている。人生のうちに仕事や社会も変わり、アイデンティティーも流動化している。しかし、加速に抵抗したり、逃げたりしても、解決しない。加速に流されずに、読書し、音楽を聴き、自然の移ろいの中で、じっくりと思考し、時の流れを感じ、季節を味わいたい。人生の一時、一時を大切に過ごそう。