「行進と散歩(管理と自由)そして体験」

(2024.9.1)

  格差社会は、教育格差に繋がり、体験格差に?そんなことはない。子どもに自由と遊びを保障すれば、どこかの避暑地に行くことより、ずっと豊かで十分な体験ができる。公園も、図書館も、ショッピングセンターも、プールも・・なんだってある。


  お泊り保育の予定の中に、自然博物館の見学と、野外活動が入っていた。自然博物館の名のとおり、野外の自然も充実している。混雑を予想して開館前に到着、一番乘り。お陰で館内は空いていて、子ども達の興味・関心に合わせて自由に見て回ることができた。案の定、昼近くになると、県外からも沢山の園が来て大混雑。早く来た分、早くお腹が空いて、混雑を避け、早目の昼食。木陰の野外テーブルをゲット。昼食が終わる頃に、近くの集合写真撮影場所に、他のグループが1列になって、ぞろぞろやって来た。行儀よく、2人ずつ手を繋ぎ、整然と行進。写真を撮る前に、懐かしい、いやな光景を見た。1列に整列させるために、手を離させた。そして、前に立った先生がピッピッと笛を鳴らすと、子ども達が条件反射のごとく、トントン前、トントン前とやりだした。幼児期ならずとも、人間は自分で考え、自分で判断したことを、自分で行って、自分のやるべきことを分かることが大切である。これは、自由でなければできない。人に命令されたり、号令を掛けなければできないことではない。命令・号令はいらないのだ。広々とした野外の自然の中、しかも一本道、手を繋がせ、自由に行動できないようにして歩かせることは行進である。車の往来がある公道ではない自然の中。前と後ろを抑え、間は自由に、自然に触れ、虫を捕ったり、花を見つけたり、岩山に登ったり、子ども達のペースに合わせて歩くことで、沢山の体験ができる。写真を撮るために、一列にならなければならない時でも「みんな一緒に写真を撮るから、一列になろう」と伝えるだけで、自分達で考え、行動して、カメラに向かって並ぶことはできる。笛の合図で、何も考えず無意識にトントン前を繰返すことは、考えない人間を作る。


  集合写真の場所は、順番待ちでいっぱいだったので、素敵な花壇の前で撮った。そして、野外の一番奥には、沢に模した高低差のある長い水遊び場がある。そこまで行く間には、アスレチックや岩の迷路などがあり、遊びながら行くと、水場には、やはりどこのグループも来ていない、貸し切り状態。汗をかいた身体に、森林の中の広い沢辺は涼しく、沢をみんなでセキ止めたり、噴水に乘ったり、十分に水遊びを楽しんだ。


  今、話題の体験重視の教育、環境による教育は、ずっと昔から「ふたば」がやってきたことだ。子ども達には、自由に沢山の経験をしてもらいたい。「子ども達の最良の教師は、自らの手である」という。自分の頭で考え、色々な試行錯誤をして、自分で判断し、決定し、自分でやってみて、その結果により、更により良い方向に、失敗したらもう一度考えてやってみることにより、多くの事を学ぶ。