「虫も殺さぬ・・・」

(2025.5.1)

 三寒四温、寒さと温かさが交互にやって来て、次第に春になるというが、地球もとうとう温暖化で狂ってしまったか、三月に夏日が続くと、急に真冬に戻ったりして、体調を崩す子もいた。北竜台の始業式は、近くの愛国学園でお花見始業式。芝生の庭、桜の大樹の下でいっぱい遊んで、お弁当を食べた。時折、風が吹くと花びらが舞い、子ども達は手をかざし、雪が降っているみたいと走り回っていた。

 三寒四温、啓蟄、山笑う、桜吹雪、春の暖かさと、おだやかで美しい景色を思い起す美しい日本語だ。しかし、今年の春は、強烈であった。啓蟄が過ぎても、冬に逆戻りしたり、虫達も、地上に出て行って良いのか、さぞ困惑したことだろう。三月中旬、夏日が報じられた日、私の部屋の窓ガラスに、カメ虫の大きなヤツが張り付いていた。翌日に、冬に逆戻りして、ヤツはどうしたろう。春らしくなった四月中旬、外来種らしき大きなカミキリ虫がいた。捕まえると、ジリジリと歯を鳴らし、どう猛そうなヤツだった。早速、踏みつぶし、駆除した。すると、それを見ていた子が、「いーけないんだ虫だって生き!ているんだ。殺してはかわいそうだよ」と非難してきた。「あのね、虫の中には、害虫といって、悪い虫がいるの、カミキリ虫は、大切な木を枯らしてしまうの、だから、見つけたら駆除(殺すとは言わず)しなければならないの」と説明した。それでも「虫だって生きているんだヨー」と喰いさがって来た。殺生を禁ずる仏門の小僧はやっかいである。

 昔の悪ガキ(今もいるが)は、善悪以前に、本能的に、虫や蛙や小動物を獲るのが好きである。そして、時には残酷と思うほどの命の扱いをする。そんな時は、命の大切さを教えるチャンスで、厳しくたしなめる。春、田圃の蛙を捕えて、牛乳パックに押し込み、自慢げに持ち帰った子がいた。パックを開けると大量の蛙が圧死し、ドロドロと出て来たことがあった。そんな時は、「こんなに押し込んでは息が出来ないし、さぞ苦しかったよ。蛙さんだって、水辺でピョンピョン飛びはねて遊びたかったろうに、かわいそうなことしたね。死なせるために、捕ったんじゃないよね。次は、二匹ぐらいにして、死なせないようにしよう」と言うと、ウンと言ってしょんぼり下を向き、何かを感じていた。

 こんな話は、子ども達と生活していると山ほどある。つばめの巣をカギの付いた棒でたたき落とし、ヒナを死なせた子ども達もいた。つばめは、遠い南の国からやって来て、日本で子育てを一生懸命にしている話しをすると、みんなシュンとして、涙目になった。大人の私達だって、命をもらって生きているのだ。子ども達は命の大切さと、狩猟本能、好奇心、探求心のギリギリの接点で、何かを感じ大人になっていく。「虫も殺さぬ・・・」という言葉があるが、大抵はその後に「・・・冷たい悪い奴」と続く。子ども達は、「虫を殺して、命の大切さを知り、」温かい人になる。